新聞によると高校の「現代の国語」の教科書に、
小説の掲載が増えているとの事。
高校の国語本来の目的は、論説や紹介文、企画書や法令文などを
読んで理解できるように、読解力をつける事だそうだ。
読み書き話すのは、社会に出てからの重要な基礎体力だ。
とはいえ、企画書や法令文を読んで理解する事と、小説を読むことは、
全く次元が異なる。それなのに、なぜ小説を増やしたのかという記事だった。
高校時代、国語で、森鴎外の「高瀬舟」を授業で読んだ時を思い出す。
一区切りづつ順に生徒に読ませ、先生がお経を読むように、その内容を解釈していく。
午後のはじめの授業で、教室内は眠さと倦怠感で朦朧としている。
「この時船を漕ぐ同心は、どのような心情だったのか? 〇〇君」と先生が生徒を指す。
突然指されたクラスメートは、慌てて隣の席の級友のトラカン(虎の巻の本)を奪い、
トラカンの答えを読み上げる。周りはクスクス笑い声。
先生には見えない机の下やその周りはバタバタ大騒ぎ、
蹴飛ばしあったりしている。
「高瀬舟」の世界とは程遠い、青春時間だ。
小説は、1人で読むものでありたい。
小説を読むことは、時空を超えて著者の語る物語に浸る、小説家と読者だけの時間だ。
時代も場所も人種にも関係なく、語り合う時間だ。
その解釈は、一つだけではない。
「この時船を漕ぐ同心は、どのような心情だったのか?」なんて言い切れるものではない。
作者だって(森鴎外)言い切れないだろう。
解釈は人それぞれでいい。
私は文学部の出身だ。
高校教師をしている友人の言葉を時々思い出す。
「生徒に聞かれたの」と友人が言った。
「先生、なぜ文学部になんか行くんですか?
法科や経済学部のようには、社会で役立ちもしないのに」
私、こう答えたの。
「文学部は人間を学ぶ所なのよ」
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