2025年4月20日日曜日

文学

 新聞によると高校の「現代の国語」の教科書に、

小説の掲載が増えているとの事。

高校の国語本来の目的は、論説や紹介文、企画書や法令文などを

読んで理解できるように、読解力をつける事だそうだ。

読み書き話すのは、社会に出てからの重要な基礎体力だ。

とはいえ、企画書や法令文を読んで理解する事と、小説を読むことは、

全く次元が異なる。それなのに、なぜ小説を増やしたのかという記事だった。


高校時代、国語で、森鴎外の「高瀬舟」を授業で読んだ時を思い出す。

一区切りづつ順に生徒に読ませ、先生がお経を読むように、その内容を解釈していく。

午後のはじめの授業で、教室内は眠さと倦怠感で朦朧としている。

「この時船を漕ぐ同心は、どのような心情だったのか? 〇〇君」と先生が生徒を指す。

突然指されたクラスメートは、慌てて隣の席の級友のトラカン(虎の巻の本)を奪い、

トラカンの答えを読み上げる。周りはクスクス笑い声。

先生には見えない机の下やその周りはバタバタ大騒ぎ、

蹴飛ばしあったりしている。

「高瀬舟」の世界とは程遠い、青春時間だ。


小説は、1人で読むものでありたい。

小説を読むことは、時空を超えて著者の語る物語に浸る、小説家と読者だけの時間だ。

時代も場所も人種にも関係なく、語り合う時間だ。

その解釈は、一つだけではない。

「この時船を漕ぐ同心は、どのような心情だったのか?」なんて言い切れるものではない。

作者だって(森鴎外)言い切れないだろう。

解釈は人それぞれでいい。


私は文学部の出身だ。

高校教師をしている友人の言葉を時々思い出す。

「生徒に聞かれたの」と友人が言った。

「先生、なぜ文学部になんか行くんですか?

法科や経済学部のようには、社会で役立ちもしないのに」

私、こう答えたの。

「文学部は人間を学ぶ所なのよ」


今年もたくさんありがとう  庭の八重椿





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