2016年7月14日木曜日

烏合の衆(うごうのしゅう)

小学校6年の頃、授業の始まる前、私たちは大声でしゃべっていた。

ピーチク・パーチク

先生が入ってきても、わいわいのおしゃべりは止まなかった。

先生は黒板に大きな文字を書いて、部屋を出て行った。

「烏合の衆」

僧侶も兼ねている、物腰のやさしい先生の静かな行動に、私たちはシーンとなった。

一息のシーンのあとに、またワイワイガヤガヤ、言葉の意味を想像しあったっけ。


世の中は、世間は、烏合の衆で成立している。

その烏合の衆を言葉で「洗脳」し、ある方向にひっぱっていくのが、「時代」なのかもしれない。

流行の映画、小説、メディア、すべてそう思える。


コンピュータはOSが入ってはじめて、コンピュータになる。

OSやプログラムがなければ、ただの箱である。

私たちも同様。 だから、人間って、どうにでも変化できる。

とっても危ういのだ。


いやいや、人間はそういうものではない。本能的に何が正しいか判断できる。

Yes, そういう部分もあるかもしれない。

あってほしい。
暑い!




1 件のコメント:

  1. 何が正しいか解る本能は確かにあると思う・・。
    なのになぜ・・?
    やはり煩悩と言うのも兼ね備えた物で それが 大衆を動かす知恵も出し・・・そして 社会全体をも動かし戦争になったり・・。
    生まれたままのきれいな心をどうにか保持したら・・みんないい人になるのかも・・?

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